一冊分の余白


夜も更けて、UTAU荘の居間は昼間と打って変わってしんとしていた。
紅茶をいれたマグカップをテーブルに置くと、広い居間に音が思ったより響いて少し驚く。すわり心地のいいソファーに座ってさあ本を読もうとしたら、クッションの下に何か硬いものがあるのに気づいた。引っ張り出してみる。
携帯電話だった。ストラップがついていて、濃緑色の地に赤色のちいさな斑点が浮かんだ丸いビーズ玉が揺れている。
誰かが置き忘れたのだろうけど、さすがに開いて誰のか確認するのはいけないかと思ってテーブルの上に置く。この家の人なら明日の朝になれば気づくはずなのでそんなに心配ないはずだ。

「懸命な心がけだと思うよ」
「えっ」
いきなり声がしたので目をやると、床の座布団の上に白黒の羽毛玉が丸まっていた。かすかにもぞもぞ動いたあとは寝たふりを決め込んでいるので、詳しく答える気はないらしい。
テーブルの上の携帯にちょっと目をやる。ストラップのほかは飾り気もなく、至ってシンプルな携帯電話。さっきの話からするに、開かなくてよかったということだろうか。誰のなのか予想がつくなら届けてくれればいいのに。誰かに見られると不都合なものなら、このままおいておいてみんなが起きてくる朝を待つのはかえってまずいような気がする。


・・・・でもまあ、夜は長いしこの本読み終わったら考えよう。



ぺらりぺらりとページを繰って時計の針が半周とすこしくらいしたころ、ぱたぱたとスリッパの足音がして紙面から目を上げた。誰かが夜食でも作るのかもしれないなと思ってちょっと耳を澄ませる。足音はキッチンに消えて、思ったより早く出てきた。居間に続くドアが開く。
「あ」
私と目が合うとちょっと驚いたような顔をして彼女は軽く会釈した。右手に持った小さめのカップからふわりと湯気が立っている。微かにレモンの匂いがして、ああ、蜂蜜レモンを作ってきたのだな、と思った。
「こんばんは」
彼女は向かいのソファーの端にぽすりと収まり、目を伏せたまま微かに笑んでカップを吹く。
名前は冬子さんといったと思う。この家に来たのは割合最近の人で、苗字はわからない。いつも持ち歩いている革張りのトランクは、今は自室においてあるようだ。
「眠れないんですか?」
「はい」
訊くと、目はカップに落としたまま恥ずかしそうにちょっと苦笑して彼女は答えた。眼鏡がすこし湯気で曇ったように見えたが、拘泥せずそのまま口をつける。両手で包むように持ったカップのなかで「あちっ」という独り言がくぐもって聞こえた。もう一度ふうふうと吹いてから用心深く少し啜る。
彼女が目を上げたので、私は自分が彼女をじっと見ていたことに今更気付き、不躾だっただろうかと慌てて本に目を落とした。

「ヘリオトロープ」
「えっ?」
聞いたことのない単語に思わず顔を上げると、冬子さんはテーブルの携帯を指して再び言った。
「それ」
「携帯ですか?」
彼女はかぶりを振って携帯を取り上げる。ストラップのビーズ玉を摘んでしげしげと眺め、一人で納得したようにまたテーブルに戻したが、私がきょとんとしているのに気づいたのか彼女もきょとんとした顔になった。
「貰い物か何かですか、そのストラップ?」
「この携帯は私のじゃなくて、誰かの忘れ物みたいで」
「ああ、そうでしたか」
彼女は私の携帯電話で、そのストラップについても知っていると思って言ったのだろう。肝心の携帯の持ち主については知らないようだ。
それでストラップがヘリオ・・・・何といったっけ。
「ブラッドストーンとも言いますね」
「ブラッドストーン」
ちいさく口の中で繰り返すと、彼女はこくりと頷いた。てっきりガラス玉か何かだと思っていたけれど「ストーン」というからには石なのだろう。自分はこういった方面には疎いせいか、名前は聞いたことがなかった。百科事典か何かには載っているかもしれないなあと思って、明日あたり調べてみようと頭の中のメモ帳の端に書き込んで、自分もすっかり冷めた紅茶を口に運ぶ。
羽毛玉が夢でも見ているのか微かに笑う気配がして、寝返りでも打つように少し居住まいをただした。


しばらくまた静かに活字を追う。
ふと視線に気付いて顔を上げると、冬子さんがちょっと首を傾げて私の手の中の本を眺めていた。
「ミステリですよ」
「お好きなんですか」
「はい」
いつもならここから怒涛のごとくいま読んでいる本やその作家さんについて喋りだしてしまうということにもなるのだったが、今日はなんとなくそれはやめることにする。
彼女は穏やかに「新刊なんですね」と続けた。
「よく分かりましたね」
「さっき、ページをめくるときにパリッていいましたから」
そういえばこの本はノベルス版で裁断はわりと雑な方だったと今更思い出して、私はちょっと本を閉じて眺めた。横の裁断面の薄い凹凸を撫でてみるが、中身の方に集中していたせいか微かな音は記憶になかった。同じ静かな居間にいて、しかも私のほうが大きく聞こえたはずなのにと不思議な気持ちになる。
「読みます?」
本を差し出すと、彼女は笑って「ふみさんが読み終わったあとでいいです」と答えた。
また本を開く。




唐突にぱたぱたぱたと足音がして、ドアが開いた。きょときょとと部屋の中を見回し、すぐテーブルの上に目を留める。
「あった!」
「シオリちゃんのでしたか」
彼女は携帯に駆け寄って大切そうに手にとると、そこでやっと私たちの方に向き直って慌てたように言った。
「ひ、開きませんでしたよね!」
「開いてませんよ」
「よかったあ・・・・」
ちょっと苦笑しながら答えると、彼女は心底安堵したように息をついた。
「寝る前にアラームかけようと思ったら見つからなくて・・・・」
最後に使ったのは部屋だったはずなのになー、と言いながら彼女は携帯を開いてメールか何かを確認している。
「・・・疚しい待受にでもしてたの?」
唐突に(やっぱり寝たフリだったらしい)床の羽饅頭が訊いたのに彼女はあからさまにびくりとして、「ちちち違いますよメールが書きかけだったんです」と弁明したが、慌てっぷりを見るにきっと図星だったのだろう。彼女はそのままおやすみなさいと言って、心なしか足早に自室に戻っていった。
蜂蜜レモンを飲み終わった冬子さんも時計を見上げてやおら立ち上がる。
夜ふかしのしすぎはだめですよと言われて、居間を出る背中にほどほどにしますと返した。






「ふみちゃんも見たら面白かったのになァ」
居間に一人、残り十数ページとなった本を開くと、脈絡なく愉快そうに足元の毛玉が呟いた。
「・・・・・あの子の部屋から引っ張り出してここに隠したの、笹鵲さん?」
あらかた誰かに見つけさせて反応を見ておもしろがろうとしたんでしょう、と訊いたが返事はない。
待受の内容については結局わからなかったが、犯人については座ったまま足先で踏んづけるとむぎゅうと楽しそうに鳴いたので、これもやっぱり図星だったのだろう。













蒼月堂書店 文具御取リ扱ヒ


月のきれいな夜だった。
原稿が思うように進まないので夜中に気晴らしにぶらりと散歩に出て、コンビニで袋菓子をすこし買った帰り道に偶然その道を通ったのだが、ふと足が止まった。
いつもこの時間には閉じているはずの本屋の表ドアが開いて、店内に明かりが灯っている。煌々とした蛍光灯の明かりではなく、うすぼんやりした白熱灯色の明りだったのも不思議だった。いつもとはずいぶん雰囲気が違って見える。
この本屋は八時過ぎには閉店するものだと思っていたのだが、違っただろうか?
まさか泥棒とかそういうんでもあるまい、とちょっと不安になっておそるおそる首だけ突っ込むと、
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「うわあ」
ほぼ死角になっていたのと薄暗いのとで見えなかったが、店長は思いのほか近くにいたらしく、思わず飛び退って本棚に軽くぶつかった自分を見て可笑しそうに目を細めた。
「・・・・び、びっくりさせないでよアキヒメさん」
「すみません」
彼女はくすくすと笑っていたが、ふと思い出したように続けた。
「どうしたんですか、こんな夜中に」
それを言うならこの店も同じじゃないかとは思ったが、それは置いておく。それから踏み台に腰かけて(いつもだったら怒られるのだが、こんな時間だからか彼女は何も言わなかった)今行き詰っている原稿についてしばらく話した。

「・・・・あーあ、考えたこと全部文字にできたらいいのに」
「そうですか?」
彼女はちょっと首をかしげた。
「そりゃあ・・・・小説家としては、それは夢だよ」
あたりまえじゃないかと口をとがらせると、「じゃあ」と言って彼女はぱたぱたと店の奥に歩いていった。ちょっとの間引き出しか何かをごそごそかき回すような音がしたのち、戻ってきた彼女の手には鉛筆が一本握られていた。
「この鉛筆、使ってみますか?」
鉛筆はまだ削られていなかったが、塗箸のように綺麗だったのだろう塗装はすっかりほこりにまみれて粉っぽい。「HB」と刻まれた金文字も輝きをなくして鈍く光るだけになっていることからしても、ずいぶん前のものだろう。手渡されたそれを胡散臭そうに眺めている自分を見て、彼女は意味ありげな微笑みを浮かべた。
「お代は要りませんよ、どうせそれ余ってたやつですから」







自室に戻ってコーヒーで一服しながら文机に目をやる。真っ白な残りの原稿が、いちまーい、にまーい、さんまーい・・・・
・・・・数えるのも嫌になる。溜息が出た。
ポケットの鉛筆を取り出して眺めてみたが、やっぱり古いだけの普通の鉛筆に見える。汚いし捨ててしまおうかとも思ったが、芯と木自体は意外とまともそうだ。とりあえず削ってみよう。
気晴らしのように鉛筆削りに突っ込んでごりごりやってから引き出すと、ぷんと木の匂いが立った。赤みを帯びた木屑をつまんで捨てる。
そして時計を一瞥してから、あきらめて鉛筆を握った。



それからの一時間ほどはまるで夢のようだった。
頭の中に思い描いていてもまだ非言語的に留まっていたイメージが、鉛筆の先から流れ出すようにすべて文字になって原稿用紙の上に並んでいく。よどみなくしゃべり続けるように文字の湧き出る鉛筆はマス目を埋めていった。
不思議なことはもうひとつあった。好都合なことに、この鉛筆はいくら書いても先が鈍っていかず短くなりもせず、いつまでも字は細く整ったままなのだった。
いったいどういう魔法なのかはわからないが、実際のところ魔法でも「このあたり」においてはそんなに不思議でもない。なにしろ足が生えたキャベツが歌うのだから、それ以上に不思議なことなんてないはずだ。
それにしても今後はこの鉛筆があれば締め切りの悩みからもおさらばだろう。なんにしろ、私は夢心地で原稿の最終行を埋めた。




一つ嘆息してから、書き上げた原稿を見直そうとして気づいた。
鉛筆から右手が離せない。
糊でくっついたようにぴったり離れず、それどころか指先は勝手に動いて、机の上にがりがりと
『鉛筆から右手が離せない。』
と文字を綴った。

思わず叫び声をあげて右手を押さえようとしたが、まるでどこかから操られているように右手は止まらない。いつにないスピードで紙面を擦っていた右手の底面は黒鉛で真っ黒になっていたが、それ以上にひりひりと痛んだ。
『思わず叫び声をあげて右手を押さえようとしたが、まるでどこかから操られているように』
右手が止まらない。どんなに押さえつけてもすさまじい力で跳ねのけて文字を書き続ける。
「痛ッ・・・・!」
半狂乱になって手近な本で右手をおもいきり殴りつけたが、直後、激痛に悶える自分には全く拘泥せず筆は走り続けた。
赤く腫れあがった指先がぎしぎしと軋むが、あれほど古そうに見えた鉛筆には傷一つ付いていなかった。

『・・・・何も考えないでいればいいなんて無理な話である、ペンを置こうとするときだって、ペンを置こうと考えてから置くしかないのだから』
嘲笑うように私の思考をどんな瑣末なことさえ逐次書き付けていく右手は、文机の上さえはみ出して壁へ至る。壁紙をえぐるようにして進む筆先が嫌な音を立てたが右手は気にも留めない。右手自体は考えてなんかいない、いわばプリンターのヘッドでしかないのだろう。それに対して指示を出しているのは確かに私には違いなかったのだが、鉛筆を放せないのだからどうすることもできなかった。
およそ鉛筆が走るすべての平面に私の悲鳴が書きつけられていく。狂走する右手の手首は穿たれたように痛み、体が反動で床に打ちつけられ引きずられる。痛い痛いという字を痛い右手が書きつけていく。
強すぎる筆圧に砕けて飛び散った芯のかけらが体の下でざりざりと音をたてた。
声はもう擦れて喉から出てこない。
『そうだ、私がこの鉛筆で書いていたのではなく、私は鉛筆に書かれていたに過ぎなかったのだ。』
鉛筆は綴る。


それから何時間経ったのかわからないが、右手の動きがゆっくりになったのに気付いた自分は顔をあげた。いま右手は部屋の隅に到り、ちょうど最後の余白を埋めようとしていたところだった。もう壁にも床にも、文字が書いていない場所はほかにない。

『ああ、これでやっと』
そう最後に書きつけて、鉛筆は止まった。

ように見えた




ほら、まだ余白があるじゃないか。
さもそう言うように、ゆっくりと右手の鉛筆が向かう先は。
「ひっ、」

『そして、まるで削りたてのように尖ったHBの芯が、自分の左手を捉えて』










・・・・・どこからどこまでが夢だったのかはわからない。
まったく覚えていないのだが、自分は朝一番に完成した原稿を提出してからふらふらと自室に戻り、ベッドに倒れこむようにして昏々と一日眠り続けていたらしい。起きたら土曜の朝だった。
部屋一面に書きなぐったはずの文字は跡形もない。殴りつけたはずの右手も嘘のように無傷だった。
そして鉛筆もなかった。


とりあえず顔を洗ってから、UTA-Locationでモーニングセットでも頼もうと家を出る。朝の風が清々しく、変な夢の後味もゆっくり歩いているうちに薄らいでいった。
そして道すがらアキヒメさんの本屋の前を通って・・・・
昼間の光のもとで見る本屋は、なんの変哲もなくいつも通りに見えた。
けれど、やっぱり気になって、ちょっと入ることにした。


「・・・ねえアキヒメさん、ここって深夜まで開いてたりする?」
てきぱきと新刊を平積みにしていた手を止め、きょとんとして彼女は答えた。
「何言ってるんですか、うちは朝こそ結構早いですけど、夜は八時半でいつも閉めてるじゃないですか」
「そ、そう、だよね・・・・・」

となると、あれはやっぱり夢か何かだったのだろう。
やっぱり疲れてたんだろうな、あれからぐっすり寝たし・・・・
溜息を吐いて、そのへんにあった雑誌をもう一冊手にとって、申し訳程度にぺらぺらめくってから棚に戻す。今日発売の雑誌はまだ並べられていないらしいが、朝早いし当然か。


店を出ようとしたとき、彼女が微かに鼻歌を歌っているのが聞こえた。
何気なく耳をすまして



・・・・・ああ。
この曲は。


―こんなに月が青い夜は、不思議なことが起きるよ―


朝日のあふれる戸口に立ち止まって見れば、窓のない店の中はまだ夜に沈んでいるように昏く見えた。本を抱えて店の奥に消えようとしていた彼女は、不意に振り返る。
ドアから漏れ出した冷たく淀んだ夜気が足元に絡みつくような気がするのは、やっぱり疲れによるものだろうか。

眼鏡の奥の鳶色の瞳が、あの時と同じように、にこり、細められたような気がした。


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